作:多古成人





















それなりに生きて行ければいい。ソレがかつて俺の選んだ道だった。

たとえ頭の中に妙な声が聞こえたって、『ソレが何だ』と開き直ればソレまでだ。

どんな声が聞こえたって、たとえソイツが詰まんない冗談を言ったって、変な誘惑をかけてきたって、普通に授業を受けることは出来るし、普通に生活をすることも出来る。

普段の生活が、一般で言う『普通』とかけ離れても、それなりに生きていくことは可能なんだ。

俺はそれ以上のことを望んだ覚えは無いし、きっとこれからも望むことは無いだろう。

なのに、俺は気付いたらとんでもない事件に巻き込まれて、必要以上に大きな物を手に入れていた。

失いたくなかったものの幾つかを引き換えに、だ。

ソレは『力』。

馬鹿みたいに、冗談にならないほど、世界を屈服させられるくらいに大きな力。

俺はその力をどうもしたくない。この力を得るために大切なモノを失い、そしてこの力を使うたびに、俺の人生が歪んでしまうからだ。

だけど、力を持った以上、力を所有する『責任』が生じてしまう。否応無しに。

それはとても面倒な事だ。やってられないの一言では済ませられない。
 
それさえなかったら、お気に入りのジャケットを血で汚さなくて済んだかもしれない。

それさえなかったら、気を張って身構えなくて済んだはずだ。

それさえなかったら、破壊衝動に顔を歪ませることなんて無かった。

――――けれど。

 それがなかったら、俺は生涯の恩師に出会うことは無かった。

 それがなかったら、俺は隻腕のサングラスを譲り受けることは無かった。

 それがなかったら、俺は大事な人を誰一人として助けることは出来なかっただろう。

 そして今、俺の背後で怯えているこの娘は、目の前で哂っている化け物に喰われてたんだよな。

 だから俺は否定しない。果てしなく歪み、もはや原形を留めていない俺の狂った人生を。

 狂った人生を歩む覚悟を決めたから、俺はこの力を行使する。

 気絶した友人と先生と、そして使い魔たちを庇いながら、恐怖と不安、そして信頼の眼差しを俺に向けるこの娘を護るために。

…ああ、いいぜ。今だけは俺を頼って構わない。

 俺には君たちを護っても、余るほどの力がある。

全てを消し去り、無いものを作り出す莫大な魔力。

死んだモノの死を、無かったことにする特権。

命あるモノを、死に至らしめる権力。
 
今夜は君のために解放しようか。

唯一にして絶対の、俺だけのために用意された力を。

「…さぁ」

 宝物のサングラスを外した。つけていると壊してしまう可能性が高いからだ。

 俺は左腕を掲げ、目の前に立ちはだかる化け物に微笑みかける。

 これからすぐに、どっちが『化け物』なのかはっきりするさ。

「ここから先は、冗談抜きだ」

 天に伸びた左手が空を掴み、一気にその存在が変化していく。

 生物とは違う質感の皮膚、金属を遥かに凌駕する硬度を持った外骨格が、左腕から生えていく。

 頭の中に、幾万、幾億という文字配列が浮かび上がっていく。

 それは全て、この瞬間に無くなったモノの名前。

 スイッチが入れ替わった。

 変化を終え、化け物じみた太さと、生物にはありえない強固な皮膚を手に入れた左腕は、俺がオレに変わった証拠。

 オレは嘗て、自由自在に『モノの終わり』を管理し、操る権力を授けられた。

 妄想でも虚像でもない、正真正銘の神様の一人によって押し付けられた。

「――――行くぜ?」

 そしてオレは変わり果てる。万物の死神、鬼洞 一真の御目見えだ。








PERDITION DANCE 〜ペルデティオン・ダンス〜




「鬼洞 一真」






話は丁度、半日前に遡る。





何度聞いても、4時間目終了のチャイムは俺たち学生にとって救済の鐘以外の何者でもないと思う。
 
腹を空かせた育ち盛りの学生たちが、規則という名の鉄の鎖に縛られて、その激しい食欲を無理矢理に理性で押さえつけるのは、結構過酷な作業だ。

 そんな作業の片手間に授業を受けられるほど俺は器用じゃないし、昨日夜半までテレビに向き合ってゲームに集中していたのが響いたのだろう。今は異常なほどに瞼が重い。

 気を抜けばすぐに夢の世界に誘われそうだ。授業中、居眠りせずに過ごせたのは僥倖以外の何者でもない。

 俺は机の上に飾っておいた教科書類を机の中にぶち込むと、ブレザーの胸ポケットから取り出したガマ口の中身を確認する。

………パンを二つ、缶ジュースを一本買うには少々無理があった。

「…やってらんねぇ」

 パン一つで満たされるほど俺の胃袋は矮小でないし、中途半端に贅沢な生活をしている俺は、ジュース抜きでパン二つを食べるような殊勝なことはできない。

 止むを得ない。俺は気だるげに席を立ち、同じ教室の席で弁当箱を広げている悪友に縋り付く事にした。

「佑樹、金貸してくれ」

「あんだよカズ、またか?」

 やたらに豪勢な――ご飯の上に桜そぼろなんぞ敷いてる――弁当を貪り始めていた佑樹は、迷惑そうな言葉とは裏腹に、親しみの部類に入る顔をしていた。

 こんな笑顔で誤魔化しているが、俺の財布が寂しいのは断じて俺のせいではない。俺に毎日のように『金貸せ金貸せ』と、借金の取立てのようにせがむ佑樹のせいだ。

「もっと考えて金をもってこい。この学校では、そんなに昼食戦争は盛んじゃないが、お前は明らかにロケットスタートを逃したんだぞ。この時点で昼食休み開始から1分30秒強、これでもう焼きそばパンは全滅したと心得ろ」

「やかましい。貸してくれ」

 人に物を頼んでいる態度じゃないな、と咎められながら、それでも俺は態度を改める気はなく、俺に5000円近く借金をしている佑樹にそんなことを言われる筋合いはもっと無い。

 俺はただひたすらに金貸しの要求をする。この学園でも有数の変なヤツの先頭を独走しているこの男と、早々会話を合わせるほど無謀になった覚えは、今のところない。

 もっとも、『気がついたら』ヤツのペースに嵌められている、というパターンには、俺がこいつと幼稚園前後から付き合ってきて数え切れないほど陥った覚えがあるが。

「んで、幾ら貸せばいいんだ?」

 まぁ、何だかんだ言っていいやつなんだ。あの妙な性格とかがなければ。

 俺は佑樹から小銭を受け取り礼を告げると、回れ右をして…背後に立っていた女子の視線に気付き、高速ステップで佑樹の背後に隠れる。

「どした?」

 獣のごとき迅速なステップで行動した俺に、佑樹がエビフライを咥えながら平然と訊ねる。

「いや…瑞穂かと思って」

 俺が察知した女子は、あの暴君ではなかった。

「なんで人の顔見た途端に逃げ出すのよ…」

 怒ったとかあきれたとか言うよりも、俺の動きが滑稽に見えたのだろう、俺の後ろにいた女子生徒が微笑交じりに言う。

 顔形は…まぁ、かわいい部類に入るんだと思う。最近どこかであった気もしたが。

制服のリボンの色から判別するに、同級生のようだ。こういうかわいい娘を目にすると、大抵佑樹のやつは…

「あ、綾音ちゃん! 今日は俺に逢いに来てくれたのかい?」

 とか言って、食い途中の弁当そっちのけで女子生徒に詰め寄ったりする。

 逸見 佑樹の名前と顔を知らない女子生徒は、恐らくこの付属校には存在しないだろう。

 何せ新聞部という立場を悪用し、付属校に在学している女子の全ての情報を網羅している阿呆だ。

 コイツの情報収集能力は目を見張るものがあるが、わざわざこんなことに使わなくてもいいんじゃないかと俺は常々思っている。

 人それを、才能の無駄遣いというからな。

 さて、そんな天才バカモンはどうでもいい。彼女とはつい最近会ったような気がするんだが…。

「あ、うんうん。今日は逸見君じゃなくて、鬼洞君に用があるんだけど」

「な、何ィィ!」

 驚愕の悲鳴を上げる佑樹の背後で、俺は強引に記憶の墓を暴く。

 …ああ、そうだ、確か前の日曜に会ったっけ。

「カズ! 貴様、何時の間に抜け駆けをぉぉぉ!」

 怒りと衝動のままに俺に攻撃する佑樹。そんなに距離が開いていなかっただけに、ほとんど直ぐにヤツの拳は俺の顔面に向けられた。

 とは言うものの…佑樹よ、所詮お前は俺の敵じゃないんだ。

「ジェノサイド・カッター」

 俺は佑樹の突発的なテンションに釣られることなく、至って冷静に必殺のカウンター技を叫びながらヤツを迎撃した。

 ナイフのように鋭い2連続の爪先斬りによって佑樹は吹っ飛び、教室の床に這いつくばる。

 クリティカルヒットは当然だ。昨晩はこの技と烈風拳や暗黒結界、そして帝王波動で十数人の猛者たちに止めを刺したのだから。ゲームで。

「ぐっはぁ!」

 俺は転がったまま呻く佑樹に背を向け、勝利宣言のように天井を指差す。

「月を見るたび思い出せ!」

「それはキャラが違うぞ、カズ…」

 そんな断末魔のツッコみを残して、愚かな挑戦者・佑樹は昏倒した。

 カウンター&2ヒット、おまけにクリティカル判定のジェノサイド・カッター(強)をもろに浴びたんだ。当然だ。

 …ここまでやって、2分もしないうちに復活することを思うと、遣る瀬無い。

「そんで…え〜と、桐嶋サンだっけか?」

 振り返り、彼女の足元に視線を這わせ、上履きに書いてある名前を確認する。前に会ったときは名前を訊くのを忘れていた。

 別に少々彼女に助力しただけだし、まさか彼女のほうが俺を探しに来るなんて思わなかった。

「同じ学年だったんだ?」

 まぁ、話の流れから同じ学校だったのは分かったが、話し口調は同級生前後に思えたが感じがあったし、外見は少々年上に見える感じがあった。年齢の判別なんて付けれやしない。

「気付いてなかったの? 鬼洞君の話なら校内でよく聞くわよ?」

 俺がそんなに有名だとは知らなかった。

「コイツのコシギンチャク説じゃないよな?」

 俺は言って、今だ這いつくばったままの佑樹を爪先で小突く。

「違うわよ、テミス先生の恋人説」

「…ぐっはぁ」

 噂のヤバさに、俺は呻いた。

「ちょっと待て、それは色々拙いだろ。ってか、情報源は何だ?」

「新聞部の新聞よ。先月の――」

 その台詞を皆まで聴かず、俺の脚は脊髄反射的に動いていた。

「貴様の記事かぁ!」

「ぐはぁ!」

 転がったままの佑樹の腹に、トドメとばかりに本気の踵落しを打ち込んだ。ヤツはアマガエルが潰されてもんどりうつような呻き声を上げたが、これだけやってもヤツは死なない。ちくしょう。

 確かに新聞部に所属するこいつは年がら年中、新聞に書くネタが無いとかどうとかで騒いでいる。しかし、よりにもよってこんなことを記事にしやがったのか。

 佑樹に対する怒りは取りあえず脇に置いて、本題に踏み入ることにする。

「それで、俺になんか用事あるの?」

「あ、うん。それでさ、鬼洞君は今日のお昼ってもう決まっちゃってる?」

「いいや、これから買いに行くところだけど?」

 とは言ったものの、ジェノサイドカッターだのコシギンチャクだの騒いでいるうちに、結構な時間が過ぎてしまった。

 今から購買に行っても、まともなパンが残っている可能性はかなり低い。

「ま、バームクーヘンくらいなら残ってるかな」

「あ、それじゃぁ…」

 桐嶋サンは言って、後ろ手で隠し持っていたタッパを俺に差し出す。

「せっかく作ってきたからさ。コレ、食べちゃって」

「あ、いいのか?」

 俺は素直に受け取る。正直この申し出は有り難かった。バームクーヘンなんぞで俺の腹が満たされるわけが無いからな。

「うん。前のお礼にしては、少ないと思うけど…」

「あんなの、別に気にすることじゃないだろ? とりあえず、弁当ありがとうな」

「はい、それじゃ」

 軽く手を振って、彼女は軽やかな足取りで去って行った。

「カ〜ズ〜マ〜」

 さて、問題はこれからだ。背後から上がる声を聞きながら、俺は小さく溜息をつく。

「貴様、由姫ちゃんという彼女がいながら…」

 常人なら病院送りになっているはず(内臓を潰した手応えは無かったが)の攻撃を喰らいながら、ヤツは平然と俺に詰め寄ってきた。

「他意は無いんだよ」

 俺は掴みかかってきた佑樹の手を振り払い、自分の席へと戻る。

 どういうつもりか、佑樹は自分の弁当を片手に、俺の隣の席に座っていた男子を押しのけて椅子を占領し、続けた。

「それで、どうしてお礼がどうのなんだ?」

「ああ、コレだ」

 俺は人差し指を垂直に立てて、くるりと円を描いて見せた。

 第三者が見れば意味不明だろうが、佑樹にはこの動作だけで十分通じる。

「なるほどな。この御人好し」

「ほっとけっ」

 俺は桐嶋サンからもらった弁当箱を開ける。唐揚げに炊き込みご飯…その他作るのに手間がかかりそうなおかずばかりが並んでいた。

「それで、具体的には何をしたんだ?」

「う〜ん…プライベートなことだからな」

 と、暗に聞くなと告げる。

 彼女はある問題を抱えていた。世間一般でストーカーというジャンルに分類される男に付き纏われていたのだ。

 確かに客観的に見てもかわいいし、気さくで友達も多そうだ。そんな彼女に恋心を抱く男子が多いのも頷けるし、物騒なことこの上ないこの世の中、そんな好意が一方的なストーカーに発展してもおかしくは無い。

 ただ、先日彼女に付き纏っていたストーカーは、警察やら何やらで解決できるものではなかった。

 付きまとっていた男は現存する人間ではなかった。何故なら、ストーカーは幽霊だったから。

魂だけが桐嶋サンの身辺に潜み、悪霊として彼女を同等の存在――死者にしようと企んだのだ。
 
まるっきりオカルト染みた話だが、生憎にも俺は既にそっちの世界に半身を沈めてしまっている。これからの人生、そっち側の世界で生活する可能性だって、残念なことに無いわけじゃない。現に俺の制服のポケットには、数年前から、自らの身体の一部として扱うことの出来る得物たちが隠されているのだ。

 で、偶然にも悪霊の存在に気付いた俺は、それらを用いてストーカーを祓ってやった訳だ。

『魔術師』としてはまだまだ修行不足の三流――というより、魔術師を名乗るのもおこがましい――だけれど、相手だってしつこいだけが取り柄の雑魚悪霊に過ぎない。

戦力的にはドングリの背比べだったわけだが、結局はテミス先生に魔術を教わっている俺の方が一枚上手だった。

が、結局俺が至らないばかりに、桐嶋サンには事の一部始終を目撃されてしまったのだ。
 
彼女には言葉を繕うことはせず、ありのままのことを話してやった。何せ彼女自身が潜在的に高い魔力(霊感ってヤツだな。そういう手合いの人間も極稀に存在するらしい)を持っていて、以前から悪霊の存在を察知していたのだから。その上で魔法を使う俺の存在を目撃され、さらに記憶が消せないのであれば、隠し通せるわけが無い。

「ま、なんにせよ、これでカズも二股掛ける漢になったわけだ。いやっ、はっ、はっ、はっ、愉快愉快」

「妙な笑い方するんじゃない。それに、俺は由姫と付き合ってるわけじゃない」

 まぁ…状況からすると恋人になったようなもんだが。

「でも、『待っていてください』って言われて頷いたんだろ?」

「…ぐ」

 なんでこいつが知っているんだ? こいつにだけは気付かれまいと一生懸命煙幕を張ったのに。

 俺の心境を感じ取ってか、佑樹がより一層笑みを深めた。

「それとも、綾音ちゃんに気でもあるのか? いやー、青春だねぇ」

 俺は無言のまま、桐嶋サンに貰った弁当を口に運ぶ。弁当なのに結構美味い。

「ま、気があるのも当然といえば当然。彼女は1年の時から由姫ちゃんと人気を二分していた美少女だからな」

「…その割には、お前から桐嶋サンの話をあんまり聞かなかったぞ?」

「俺は由姫ちゃん派だったんだ。…何つったっけ? 彼女がテミス先生の紹介で例の学園なんかに留学しなければ、俺も今頃…」

「はいはい…」

 面倒なので適当に相槌を打つ。

「何だ、そのやる気の無い返事は! 俺たちはもう来年で高校卒業だぞ? 燻っていてどうする。早く恋人作ってイチャイチャしなけりゃ…遊んでる時間はもう無いんだよ!」

「その『イチャイチャ』ってのは遊びの内に入らないのか?」

 …それとも、軽薄野郎のお前が『真剣な』お付き合い?

「どーせお前も本校に進学するんだろ」

 俺たちの通っているのは『付属』高等学園だ。別に入試試験だの何だの大した苦労もせず、比較的簡単に大学へ進める。

 当然、付属の生徒の大半はそういう考えで受験した連中だ。同級生が増えることはあっても、減ることは殆ど無いだろう。

「なんでそう、面白みの欠片も無いことを言うんだ?」

「何でって言われてもな」

 興味が無いから。それが最大にして唯一の理由だ。

「畜生、何でお前がモテてお前より面が綺麗な俺がモテないんだよ」

「人徳だっ」

 根拠なしにムカつく佑樹の言葉を聞き流しながら、俺はもくもくと箸を進めた。






 精神を研ぎ澄まし、自分の中に流れる波を見つける。

 ゆっくりと、心音と共に波を打つ俺の魔力。

 色で例えるなら、俺の魔力は灰色らしい。

 人間の持つ七つの色彩から外れた、破壊の黒と創造の白。その二つの魔力が重なったかのような、中間的な魔力。

 それは元々俺に備わっていたものだったのか、それとも中に"アイツ"が居たからそんな風に変化したのか、俺には全く判断がつかない。

 俺の魔力は創造、破壊に全力の半分ずつしか力を注げない中途半端である反面、汎用性に長けている代物だと、テミス先生は言う。

 ある日を境に、俺は誰も立ち入らない古びた2棟の資料室で、テミス先生に魔術のレッスンを受けるようになった。

 魔力とは、想いを想いで終わらせないための、本当に実現させるための力。

 そんな誰もが持っているにも拘らず、誰もが存在に気付かない力、一般世間にはその存在は知られていない。たとえ無意識のうちに魔力が使えても、魔力という存在自体に気付く人間はほとんど皆無であり、気付いた人間は大概、ムコウ側の世界に引き込まれているからだ。

本当に魔術師を呼べる人間は、そうはいない。魔力の存在に気付いたところで、その扱いには個人が持つ才能も必要ながら、魔力を魔法に使用できるレベルになるまで訓練するのも相当な難儀だ。面倒臭がりの俺が、才能も何にもなしに、どうして熱心に魔術の扱いを学ぼうとしたのか、今になって考えれば不思議なくらいだ。
 
少なくとも、今の俺にあの時の行動力は残っていない。

「よし、やってみろ」

 先生に促されるがままに、俺は魔力の波を右手に集中させる。

 かき集められた魔力が、掌に留まるのが分かる。

 俺はすかさず、頭で炎をイメージする。

 それは決して簡単なことじゃない。炎の熱さ、怖さ、残酷さ、恐ろしさ…作り出すモノの全てを知っていないと、それを作り出すことは不可能だ。

 下準備は出来た。後は、発火させるだけ。

パチン。

指を鳴らす軽快な音に混じって、俺の右手に集まった魔力が燃える。
 
右手がオレンジ色の炎を纏う。が、当の俺は全くと言っていい程熱さを感じない。

「よし…今日はどら焼きを作ってみろ」

「…はい?」

 余りに突拍子の無い先生の台詞に、俺は折角作り出した炎を消してしまった。

 普通なら…炎の色を赤から青に変えてみたり、炎から雷に切り替える練習をする場面だ。

「お前、どら焼きが好物だっただろう?」

「まぁ、そうですけど…」

「魔術による物体の具現化は高レベルのイメージが必要になる。常日頃から身に着けているアクセサリー、長年使い込んだペン軸…お前くらいのレベルの魔術師が具現化できるのは、せいぜいその程度だ」

「俺の場合は、それがどら焼き、と?」

「そういうことだ。魔力の絞り方は同じだ。ただし次は両手を合わせて作り出せ」

「両手?」

 いまいちイメージが掴めず、疑問系で訊く。

「合わせた掌の中に生み出す…といえば分かるか?」

「まぁ、何となく…」

 言われるがままに、俺は向かい合わせた両の掌に魔力をかき集める。

 色や形、味や触感、質量、弾力…頭の中に浮かぶイメージ、それに呼応するかのように、両手の魔力が絡み合い、徐々に見えない魔力が見えるものとして具現化していく。

 手の中に出現した、思い描いたとおりの質感。見ると、頭の中でイメージしたとおりのどら焼きが、魔力によって練成されていた。

「出来た…」

 軽い疲労感が体中に被せられる。魔力を消費した代償だ。

「大したものだな、お前は」

 先生は表では決して見せない冷静な顔に、温かみのある笑顔を浮かべる。

「流石というべきかな。魔力の扱いだけに関しては、由姫より遥かに呑み込みが速い」

 こんな風に週一で先生のレッスンを受ける俺と違い、由姫は魔法学園で来る日も来る日も魔術の特訓を積んでいる。

 俺は実戦でならそこそこいける方だと思うが、魔法合戦で俺が彼女に勝つ可能性は、限りなく0に近いだろう。

「そういえば昨夜、彼女から電話が来ましたよ」

「何か言っていたか?」

 どら焼きを頬張ってから頷く。俺の許に、月一回のペースで彼女から電話がかかってくる。

 昨晩の電話では、常用語の英語が冗談を言い合えるほどに上達したこと、向こうで出来た友人が高等な魔術を覚えたこと、彼女自身の魔術の習得具合等を教えてくれて、その後は二人でどうってこともない近況報告や馬鹿話に花を咲かせた。

「元気でやっているそうですよ。みんなにもにもよろしくってさ」

 最後に彼女がコッチに帰ってきたのは…去年の冬休みだったな。

「そうか。ところで一真、お前桐嶋と何かあったのか?」

「…はぃ?」

 思わず情けない声を上げた。別に弁当ご馳走になっただけだが…なんでそんなこと、先生が知っているんだ?

「書いてあったぞ? 昼休み明けに発行された新聞部の新聞に」

「…佑樹」

 呪詛交じりに悪友の名を呟いた。

 あのへらへら薄情身内売却人畜野郎、たった数分でそんな内容の記事を書き終えやがったのか。…いっそ、本気で屠るか? じーちゃん直伝のネリチャギで頭蓋ぶち割るとか…

「やってらんねぇな…。彼女に付き纏ってた悪霊ストーカーを退治しただけですよ」

 湧き上がる怒りを理性で押さえつけながら、俺はテミス先生に進言した。

「ふむ…悪霊退治か。お前が作れるのは炎と…雷だったな」

「はい。炎は放出できるけど、電は身体に帯電するだけです」

 炎というのは生物の抱く恐怖のイメージの代表格であり、それ故に頭の中でイメージを作り上げるのが比較的楽なのだ。

 その一方で、電は炎に比べてイメージが難しい。

 炎はハッキリと『熱いモノ』とイメージできるし、大半の人間がその熱さを体験したことがあるだろうが、雷がどんなモノであるかと訊かれ、『痺れるモノ』と答えても、実際に雷を体験したことのある人間はあまり居ないだろう。それだけに、雷のイメージは、頭の中で思い描いたあやふやな物でしかないのだ。

 もっとも、俺はトンでもなく――普通なら命を絶たれるほど――強力な電撃を喰らった経験があり、そのお陰でイメージ修行は比較的楽だった。…放出できないのは修行不足としてな。
 
とは言え、俺がやっていることは所詮『魔法』ではなく『魔力の扱い』でしかない。魔力で何かを作り出すのは基礎中の基礎、この魔力の塊で作った炎を、さらに攻撃用に特化させるのが魔法の領分だ。

 魔術師というものは大抵、幼少の頃から特訓を始めるらしい。俺みたいに年を取り過ぎ、その上由姫のように魔術の才能が無い人間が一流の魔術師になれる確率は、天文学的に低いのだという。

…まぁ、俺の場合は特例として、一流の魔術師辺りを遥かに凌ぐ魔力を持っていて、オマケに以前紙粘土と俺自身の血で使い魔なんてのを作った経験もある。

「それだけで良く退治できたな」

 感心した、というよりも呆れた風に先生が言う。正確に言えば俺は魔術師の『タマゴ』もいいところだからな。

「俺だってソレくらいは出来ますよ。何せしつこいだけが特技の悪霊でしたから」

 それに、と言って、俺は付け加える。

「まがりなりにも、自分の意思で"あんなもん"に立ち向かったことがあるんですから。根性は備わってますよ」






「ヘイ! エブリバーディ!」

「ぐっはぁ!」

 今日も魔術のレッスンを終え、校舎から学校の校門までの道を歩いていた俺の体は、芸術的なほど見事な回転を掛けながら吹き飛び、視界は一度地面を映した後、今度は女二人組…だと俺の脳が認識するより早く青空を見上げ、そして堅いものに衝突して滑空停止し、再びコンクリートの地面のアップを眺め、そして重力に促されるがままに熱い接吻を交わす。

 吹き飛んだ俺の身体を受け止めてくれたのは校門の壁。確か4〜5メートルほど距離があったような気が…。

 てか、地面に叩きつけた顔が痛い。

「痛い…涙が出るほど痛い」

 ただの比喩だ。本当に泣いている訳ではない。これくらいのことは日常茶飯事だし。

「ほらカズ、何座り込んでるのよ」

 そう言ってコードネーム"暴君"が俺を見下ろした。

 俺と佑樹の間で暴君と呼称される地上最凶のジョシコーセー(私見)、朝霧 瑞穂。

 正直言って、俺が一番会いたくない人間だ。コイツのせいで何度死に損なったか分かったもんじゃない。

 男子の間では割と顔が良いことや成績も優秀なことで話題になるが、ハッキリ言おう。辞めろみんな。コイツの良い噂をするな。そんなものが囁き合われるくらいなら、俺の『テミス先生の恋人説』を噂された方がまだマシ…かな?

「…暴君」

 恐怖と嘲笑と、その他色々の意を込めて、瑞穂に俺は聴こえないように呟いた。

「何か言った?」

「いんや」

 聴こえていて堪るものか。声帯を震わせないほど小さな声で呟いたんだ。

「で、ナニが暴君なわけ?」

「…はい? 大昔にキリスト教を迫害した暴君ネロの説明を、よりによって歴史が苦手な俺にしろと言われましても…」

 チィ、この地獄耳め。お得意のフィーリングか?

「ま、いいわ。どーせアンタに用があるのは私じゃないんだし」

 ああ、そうかい。そうだろうよ。

 コイツがこういった具合に俺を殴り飛ばすのは日常茶飯事であり、挨拶と同意義だ。生徒の一部にはそんな光景を見たらその日は良いことがあるとか言われているし、佑樹は新聞で、俺がどういったタイミングで殴られたとか、殴るときの瑞穂のフォームはどうだったとか、飛距離がどうとか、そんなくだらない特集で紙面を埋めてやがる。やってらんねぇ。

「ほら、お客さんよ」

 そう言って瑞穂は、自分が背後に同伴させていた女子を指差した。

 桐嶋サンだ。何でだろ。

「ところでさ…」

 瑞穂が、背後の桐嶋サンに聞き取られないほどの声で俺に耳打ちする。

「あんた、綾音に手ぇ出す気?」

 何を言い出すかと思ったら、そんなことか。

「生憎、俺は『他人と深く関わり合いにならない』をモットーにしてるんで」

 それは自分に科した掟。もうこれ以上他人を余計なことに巻き込むつもりは無い。少なくとも、既に深く関わり合いになっている連中を除いてな。

 だが、それじゃぁなぜ俺は、悪霊に付き纏われていた彼女を助けた? …なんて聞くなよ。困っている人を見捨てられるほど、俺は乾いた人間じゃないのさ。

「そうじゃないわよ、あんた、由姫を放っておいてあの娘とくっ付き気?」

「あのなぁ…」

 その質問は、佑樹にも訊かれたぞ。

「由姫を泣かせたら承知しないからね? あの娘は私の大切な友達なんだから」

 つまり、由姫を振ったら、木星圏辺りまで殴り飛ばされるくらいじゃ済まないということだろう。

 そんな風に他人の世話を焼いてないでお前もとっとと彼氏作れ、とか思うが、命が惜しいので口にしない。

「それと、綾音を泣かしても承知しないからね」

「…はぁ?」

 由姫ならともかく、何で桐嶋サンを泣かせられるんだ?

「ま、いいわ。それじゃ私はこの辺で。じゃぁね、綾音」

「うん、じゃあね、瑞穂ちゃん」

 そう言って瑞穂は、桐嶋サンと手をひらひらさせ合いながら校門をくぐって行った。

「瑞穂ちゃん…ねぇ」

 その呼ばれ方、すんごく似合わないぞ。

 表ではかわいいと評判の、面倒見が良いと評判の瑞穂。

 フン、愚かな一般大衆共め。そうやってせいぜい騙されているが良いさ。

 あんな名前で呼ばれている所を見ると、確かに瑞穂も普通の女子高生に見える。…が、騙されてはいけない。人間は誰であれ心の中に"他相"というものを飼っている。そう、こうやって昼間は一般の学生を気取っているこの俺にも…。

「鬼洞君…凄く悪いこと考えてる顔してるわよ?」

「…あんま気にしないで」

 桐嶋サンに咎められて首をぶんぶん振る。イカンイカン。つい思考パターンが"アイツ"とダブってしまった。

「あのブラックサンナックル搭載型・対サタンソード最終決戦兵器『キングストーン』と知り合いだったんだ」

 舌を噛みそうな異名その2を、俺は立ち上がって砂埃を払いながら正確に口ずさんだ。

 この無駄に長い名前に意味なんてない。とにかくこの名前の長さから、俺があの女をどれくらい恐怖しているのか推測できれば良い。

「長いわね。…分かる人いるかなぁ」

 桐嶋サンは苦笑気味に言う。まぁ、他にコメントのしようもあるまい。

「けど、鬼洞君。あの殴り飛ばされてるのって、半分はあなたが自分で飛んでるからでしょう?」

 まるで子供のいたずらを咎めるように言う。

「う〜ん…自覚は無いんだけどな」

 最近、佑樹に指摘されて気付いた事だ。一年の始めの頃に瑞穂と再会してから毎日一回は殴り飛ばされるようになったのだが、どうやらそれも日を追うごとに飛距離が伸びて行ってたらしい。

 瑞穂が空手をやっていてるとはいえ、所詮は女。そんなパンチでキリモミ回転しながら吹っ飛ぶほど俺は薄っぺらくない。

 となると、3〜4メートル吹き飛ばされる要因として考えられるのは、俺が故意にジャンプしていると言う事。

 しかも、そんなことをやっている自覚が俺に無いのだから、それは無意識の脊髄反射として行っていることになる。

 それにしても…助走無しに回転しながら数メートル飛び跳ねるなんて芸当、反射的に人間にできるか?

…まぁ、俺なら有り得るか。






「またストーカーが出た?」

 桐嶋サンに連れられて学校近くにある馴染みの喫茶店に入店し、注文の後で切り出された会話が、それだった。

「えぇ…」

 困り果てたように頷く。その表情に普段の明るさは無い。

「どういう意味だよ?」

 一応俺も彼女に関わってしまい、オマケに『魔術師』の話を聴かせてしまっている以上、相談に乗らない訳には行かない。

 それで、話を要約すると、以前みたいに誰かに付きまとわれているということだ。それも日夜問わず、手紙やら無言電話やらも多いらしい。

だが、彼女に前に付きまとっていた悪霊は俺が払った。彼女の霊力は、取り立てて悪霊が狙うほど高いわけではないし、立て続けに2度も悪霊に付きまとわれるとは考えにくい。今回は物的な証拠(手紙とか、無言電話とか)もあるらしいし、流石に今回のストーカーは存命している人間だろう。

「警察に届ければいいじゃないか」

 内心の億劫さを隠して、常識のままに提言する。

 生きている人間なら『魔術師』――というか、俺の出番は無い。他の魔術師ならともかく、修行不足の俺には催眠術や精神操作の類なんぞは使えず、術を用いてストーカー行為をやめさせることは不可能なのだから。ストーカー本人を見つけ出して金輪際外を歩けない顔に整形するのはさぞかし簡単だろうが…

 というか、そういう相談は他の人にして欲しい。佑樹とか…アイツなら嫌になるくらい親身になって相談に乗ってくれるだろうし、俺的には瑞穂をボディガードとして雇うことを強く推奨しておこう。

 それに、彼女はこれ以上、俺と関り合いにならない方がいい。

「…それが」

 俺の提案に言葉に詰まり、目を伏せてしまう桐嶋サン。

 悪霊やら魔術師やらの存在を知ってしまった彼女だ。余計なことを知って、いろいろと危惧しているのだろう。

「それとも…何か人には言い難い事?」

 桐嶋サンは頷いて、学生鞄の中から一冊のB4ノートを取り出した。

「今朝、こんなものが送られてきたのよ…」

 そういってノートを俺に渡す。表紙には身の毛もよだつほど汚らしい字でタイトルが書いてあった。

――――『運命の君へ』。

「うっわっ」

 タイトルを呼んだ途端、俺はノートをテーブルの上に放り投げていた。

 店員の人が注文のコーヒーを持ってくる。俺が放り出したノートが邪魔でコーヒーをテーブルに置けなかったので、仕方なくノートを手に取り直す。

「…中身は、読んだ?」

 ノートの表紙を眺めながら訊ねる。よっぽど恐ろしい内容だったのだろう、彼女は怯えたような様子を見せながら頷いた。

「送り主は?」

 俺の問いに、桐嶋サンは首を振った。ストーカーを親でも分からない顔に矯正するのは難しそうだ。

「おっぞましいな…タイトル読んだだけで鳥肌が立つ」

 俺は寒気を覚えつつ、一大決心の許にノートを開いてみた。

…『君と僕の魂は、運命の赤い糸で繋がれている』。

…『君が風なら、僕は君を受け止める大空である』。

…『僕の生は君だけのものであり、僕の肉体もまた君だけのものである』。

…『自分の無知が愚かしい。君への感情を表現するために、僕は『愛してる』の一言しか用意できないなんて』。

………以下、俺の気分と感情を汚染する恐れがあるため、ノートを閉じる。

「…燃やそーか」

 気持ち悪い。こんな餓えたヤギすら食わなさそうな文章を書く阿呆がまだ残っているとは…やっぱりこの世界は、俺が思っている以上に狂っているようだ。

「………」

 俺の能天気な発言にも、桐嶋サンは一向に怯えた表情を崩そうとはしない。…一応笑いを取るつもりで言ったんだが。

 それにしても、これだけ悪意のエネルギーを文章に叩き込めるヤツも珍しい。この熱意をもっと別のところに注げば良いのに。あからさまな熱意と紙の無駄遣いだ。

 何気なくノートを観察して行って、不意に裏表紙に目が止まった。

「…!」

 俺は表情を押し殺して、驚きを桐嶋サンに気取られないようにすることで精一杯だった。

 桐嶋サンはコレに気付いていたのだろうか?

 もしかしたら、魔術師を自負している俺に何らかの関係があると思ってこれを俺に見せたのだろうか?

 裏表紙に描かれていたのは、円に収まった六芒星。真っ赤なインクで描かれたそれが意味することを、俺はテミス先生に教わったことがある。

 魔方陣…ノートの裏表紙に書かれたソレの効能が何なのかは分からないが、この悪意から察するに、書いたストーカーはそんじょそこらの阿呆じゃない。

 想像を絶する空前絶後の大阿呆か、何かのまじないオタクか…

それとも、俺と同類のバケモノか。

「怖いか?」

 何にしても只者じゃない。内心の緊張を隠して桐嶋サンに訊ねる。

「…えぇ」

 それはそうだろう。こんなにも頭の悪い怪文集を送られて気分のいいやつなんてそうはいない。

 それに、普通の人間は裏表紙にこんな六芒星の魔方陣なんて書きはしないはずだ。

――――それも、人間数人分の血液を混ぜて作ったインクを使って。

 血液のインクで描いた六芒星を睨みつけながら、俺は最近、この辺りで行方不明者が数人出ていたことを思い出す。

「…なるほど、ね」

 自分自身に対して溜息を吐く。気付いたら、本気で彼女を心配している自分がいたからだ。

 他人には必要以上に関わらない…そう決めていたはずなのに、俺の中で眠っている『アイツ』がそれを許さない。

 ああ、そうだ。アイツだったらこんな風に怯えている女の子を見捨てることはしない。

「大体のことはわかった。それじゃぁ、これ持ってて」

 正直、三流&修行不足の魔術師である俺にできることなんて、そうそうない。

 だけど、彼女がもし襲われたとき…それを俺が知る手段と、その状況を打開できる手段を用意することはできる。

 俺は例の気味の悪いノートを預かり、鞄へとしまうと、代わりにその中に仕舞われていた携帯電話のキーホルダーを取り外し、彼女に渡す。

「何これ?」

「パーティ・ホエールNO.4 ハンタ=ランス。自作のキーホルダーだ」

 俺が彼女に渡したのは、デフォルメ化された緑色の鯨に、矢印みたいな槍を握った手がちょこんと生え、腹と尻尾だけで身体を直立させた、見るからに滑稽な人形だ。4番目のコイツは、俺の血と魔力と経験の結晶でもある。

「どうだ? 結構いい出来だろ? 4体目だからさ、なかなか腕が上がったと思うんだが…」

 俺の宝物のサングラスに匹敵する物を手渡されても、彼女の反応は薄かった。

「…あんまり、かわいくない」

 ぐさりと、胸に強烈な痛みが突き刺さる。

「い、痛い事言うなよ」

 傷心に胸を押さえて項垂れる俺を見て、桐嶋サンが笑みを零した。

「鬼洞君、変わってるよね」

「…佑樹ほどじゃない」

 アイツより変わってるって言われたら、精神的に死ぬぞ、俺。

「こういうの、好きなんだ?」

「いいや」俺は答えた。

「別に集めてるとかそういうんじゃ無くて…なんつーかな、なんか、それに縁みたいなものを感じたんだ」

「縁…?」

 桐嶋サンは怪訝そうに反芻した。まぁ、言っている俺もよくわからないのだから、そんな顔されても仕方あるまい。

「感情って言うのは結構自分自身でも分からないもんでさ。まぁ、好きは好きなんだけど。気付いたら余計なことに意識が一人歩きしてることだってある…そいつを作った時にしたってそうだしさ」

 俺は桐嶋サンの手のひらの上のハンタを一瞥する。

「てか、何かが好きなことに理由なんて要らないんじゃないのかな? 確かにそれを作ったのは俺だけど、作った理由なんて得に無いよ。とは言え、めんどくせぇめんどくせぇ言いながら創ってるわけでもないしね」

 そんな独り言のような俺の持論を、桐嶋サンは不思議そうな顔をして拝聴していた。






 俺の過去の経験から言って、こういう面倒臭い事件は大抵夜半を過ぎてから幕を開ける。

 昼間に桐嶋サンから預かった――返すあてなんて全く無いが――ノートを片手に、俺は近隣の森林公園へと向かう。

 まるで舗装されていないお粗末な雑木林。ここで生まれた思い出にロクなものは何一つ無いが、この時間帯になれば、周囲に人気は存在しなくなる。

 足元には波打つ緑、空には半月。さらに目を凝らせば、宝石の海が天に広がっている。

――死ぬ時は、やっぱりこういう場所がいいな。

「さて…と」

 懐から取り出したサングラスをかける。右側のテンプルはごっそりなくなっていて、しかし意外なほどの安定で俺の顔に引っ付く。

下手に動き回ればズレ落ちてしまうような代物で、ハッキリ言って荒事、しかも夜中にかけるようなものではないが、コレの前の持ち主は、そういうことを軽々と遣って退けていた。
 
そんないわく付きのサングラスで顔と気持ちを引き締めると、俺は手にしたノートを一瞥する。

 裏表紙に描かれた魔方陣。調べてみると、随分と厄介な代物だった。

これは時限的な召喚陣。今夜8時に、この魔方陣を描いたモノを、ノートの下へと呼び寄せる。
 
紙の上に描かれた魔方陣自体を壊すことは簡単だが、ノートを破るなり、焼き捨てるなりしたところで、それは根本的な解決策にはならない。

 全ての元を断てば、それで一件落着なのだ。

 魔方陣から現れる『何か』に対する恐怖はない。なぜなら、そんな感情はずいぶん昔――魔術師を名乗るよりも昔に捨てたからだ。

 俺はノートを草むらに放り投げ、準備運動がてらに指を鳴らし、魔力の炎を作り出す。

 ガソリンを注いだように、掌の上で激しく踊り狂う、暴力的なオレンジ色の炎。

…昂っている。俺の魔力は、これから起こる事態を予想して興奮していた。
 
炎を払い消し、顔に手を当ててみると…頬がたわんで、口が弓なりに曲がっていた。

 笑っていた。これから起こりうるであろう闘争を目の前に、俺の表情は笑みを形作っている。

 俺は闘いたい。何でもいい、俺自身の力を計れるような化け物なら何でも。

 この昂った衝動を沈下してくれるようなものなら、別に何でもいい。殺し甲斐のある相手であるほど大歓迎だ。

(…狂ってきたな)

自分でそれを咎めながらも、表情に浮かべる笑顔が精一杯の自制だった。
 
なぜなら、これこそが俺の他相だから。
 
俺が本心から戦うことを望み、そして全ての状況が、俺に戦うことを推奨している。
 
だから抗う理由はない。ありのままに闘い、存分に殺し合い、そして生き残るのはどちらか一方。最終的に必要な結果は、とりあえずそれだけだ。
 
笑みが止まらない。これから起きる殺し合いが、怒りと激情をぶつけ合い、血塗れになって命のやり取りを行うことが、楽しみで楽しみでしょうがない。

――――そんな自分が、俺は心底大嫌いだ。

 そして、時計が約束の時刻を刻み、

 放り捨てたノートを中心に、巨大な光の柱が立ち上がる。

「お出ましか…」

 俺は呟きながら、ポケットの中の愛銃、渋く銀色に輝くコルト・ディフェンダーを取り出した。

 以前テミス先生から貰った物だ。念のために言っておくが、俺は銃に関しては明るくない。この銃もテミス先生が日本に持ち込んだ内の一丁であり、これ以外の銃の扱い方は詳しく知らん。

 銃口を向けた光の中に影が生まれる。徐々に柱が収束して行くとともに、ソレの実態を視認できるようになった。

「…おいおい」

 敵の正体を知って最初に俺がしたことは、呆れる事だった。

 どす黒い身体に、丸太のように太い肢体を持ったソレは、図太過ぎてとても動物の物とは思えず、身体の最上部に生えている醜く歪んだ頭部が、ソレが人間が変化したものだということを物語っている。

 これがストーカーの正体。人間ではなく、妖魔より遥かに性質が悪く、悪霊など比べ物にならないほどの、厄介な代物。

 瘴気を息のように吐き出すその化け物の、頭部で狂気を湛えた眼光を見て、俺は化け物が何なのか理解した。

「神外かよ。…しかも、お前か」

 俺はソイツの額に刻まれた紋章を見て、あの事件の張本人の、憎らしい笑い声を思い出した。

「俺に殺されて、化けて出てきたってのか? クルスト!」

 神外。ソレは俺たちを作ったモノたちの理から外れ、俺たちの住む世界と全く違う世界に住む規格外の者たちの総称。

 それもよりによってあの時の俺とやり合った神外の思念体が、人間の魂を取り込んでいるなんて。

 現界に留まり、行き場を失っていた神外の莫大な魔力が、死者の魂を取り込み、実体化した。

――――人間の身で歯が立つ相手ではない。

 それでも俺は条件反射でディフェンダーの銃口を奴の眉間に向け、容赦なく引き金を引きまくっていた。

 護身用としては充分過ぎる破壊力を持つ.45ACP弾であるが、勿論それは対人戦での話であり、邪な存在に絶対の威力を揮う銀の弾頭は、しかしそれも対・妖魔戦での話である。

 螺旋を描きながら超音速で直進し、狙い違わず眉間部に命中した一発数万円の弾丸は、しかし想像を絶するほどの硬度を誇る皮膚を破ることは適わず、まるでBB弾のように弾かれてしまう。

銀の弾丸ですら、神外の前では豆鉄砲に等しい。

「…ストーカーだけに顔の皮が厚いわけだ」

 射撃での攻撃を諦めると、今度は指を鳴らして右手に魔力の炎を踊らせる。

 程度の知れた"俺"の魔力で作られた炎が効くとは思わないが…ささやかな威圧にはなるはずだ。

「なんで桐嶋 綾音に付き纏う? なんでわざわざ神外が、女一人にこんな手間を掛ける?」

 俺は神外に訊ねた。神外は高い魔力を持つと同時に、妖魔の殆どが持っていない『知性』を持っている。

 桐嶋サンの許へ自分の召喚陣を書いたノートを送りつけ、彼女だけを攻撃する…高い知性を持つ神外はこんなまどろっこしいことはしないし、そもそも女一人を手に入れるために事を起こす訳がない。

考えもなしに衝動だけで行動するのは、下手な妖魔の行うことだ。

当然クルストはそんな阿呆なことはしない。となると考えられる可能性は一つ。残留思念が取り込んだ死者の魂が、驚くべきことに最強の神外・クルストの精神力を上回り、身体の主導権を握ったのだ。

「キ…サマカァ!」

 人間の声ではない、化け物の声で奴は人間の言葉を喋る。

 コイツが桐嶋サンに付きまとった理由…それは多分、思念体に取り込まれた魂が人間だった時に持っていた、彼女に対する何らかの執着だろう。

「ニドモジャマヲ、スルナァァ!」

 二度も…その台詞に、俺は神外の正体を知るに至った。

 思念体が取り込んだ魂の正体は、俺が祓ったはずの悪霊。

――――この神外の本体は、桐嶋サンのストーカーの亡霊だ。

 一度死んでも死に切れなくて、俺に祓われてもまだ死に切れなくて、神外なんかに成り果てても、コイツは桐嶋サンを殺したがっている。

 そんな執念だけで神外の意思に打ち勝つとは…。彼が生前はどんな人間だったかはわからないが、俺は一つだけ、ある決意を固めた。

「悪いが、そういう訳には行かないんだよ!」

 絶叫とともに炎の宿った腕を掲げた瞬間、ヤツが両手を広げ、体を沈ませたと思うと、超高速で俺目掛けて突進する。

 どす黒い肢体が草むらを駆け…気付いたときには俺の喉笛は、万力のような握力を誇るヤツの巨大な手に握られ、持ち上げられていた。

 俺は魔術よりも蹴り中心の体術の方が得意だが、人間と神外には埋めることの出来ない決定的な"生命体としての差"が存在する。

どんな体術も魔術も、放つ俺が"人間"である以上、目の前の神外に対しては儚い抵抗でしかない。

人間では、神外を殺せない。

神が創ったものでない神外を殺すのは、人間の役目ではない。

だからコイツラを滅ぼすのに必要なのは、伝説の剣でも白馬の騎士でもないのだ。

必要なのは、最も原始的であり、神の規律さえも打ち破る、暴力的な破戒の力。

「ぐ…」

 足元をふらつかせたまま、俺は自分の首を握る腕に、右手の炎を叩きつけた。

 炎がモノを焼く音と匂いが立ち込める。にも関わらず、ヤツは相変わらずの狂気で満ちた眼光で俺を睨んでいた。

「…一度祓われた事が悔しいか?」

 頭を大きく振ってサングラスを神外の頭部へと投げつけてから、嘲笑と共に言い放つ。

 宝物のレンズは攻撃にも何にもならず、軽々と弾かれてしまう。元々そんな効果を期待してはいない。ただ、この場から遠ざけたかっただけだ。

「分かるか? お前は神外に魅入られた弱者だ。力を振りかざして欲しいものを強奪する、だけどそんなので、他人の心を手に入れられる訳ないだろ」

それは強がりであると同時に、この状態の俺にできる、唯一にして最期の抵抗。

「お前の負けだ」

 俺の挑発に、ヤツは怒りに満ちた表情をさらに歪ませ、掴んだ喉を力一杯に締め上げる。

――――俺の首に回った手が、完全な拳を作り上げた。

 声も出せず、息も出来ず、俺はただただ首から上が身体から離れる事実だけを知覚した。

 視界が一変し、一気に地面へと降下する。

 ヤツは首を失った俺の身体をゴミの様に放り捨て、地面に転がる俺の首を嘲るように一瞥する。

 一瞬だけ、死体の不法投棄は罰金なんかじゃ済まないな、とか、そんな余裕に満ちた疑問を浮かべた。

 どす黒い図体をした化け物は、これまたどす黒い足を俺の頭の上に置くと、その足に全身の体重をかける。

 卵を潰すような小気味良い音を立てて、俺の頭は粉々に砕け散る。






――――はずだった。






"この馬鹿者!"

 簡潔に俺の説明を聞かされたお師匠様は、何時になくご立腹だった。

 意識の中に飛び込んできた声に、先ほどくびり落とされた頭を抑える。頭を粉々に踏み潰された後で、慣れもしない念話なんてものを行って、その上で怒鳴られたのだ。頭痛の一つや二つは当たり前。

「そんなヤバい相手だとは思わなかったんですよ。まさか"アレ"が残留思念なんてモンを残してるなんて」

 誰も居ない虚空に向けて、一応は言い訳をしておく。あの状況で神外が現れると露ほども思っていなかったのは本当だ。

"まぁ、確かにな…クルストは私たちとあのサングラス男で処分した。…まさか残留思念を残すなど考えもしなかったが、それも当然といえば当然か"

 俺は『サングラス男』を思い出しながら、拾い上げた宝物の隻腕のレンズを指で弾いた。

 考えてみれば、あのときの即興パーティのメンバーの大半は、せいぜい――今世紀中に700歳になる先生と"アイツ"を除けば――20代前半を超えていない。

「佑樹に桐嶋サン迎えに行ってもらってるから、学校で処分したいんですけど」

"お前の装備は?"

「ディフェンダーだけ。残弾は4発しかありませんけど。あ、あとホエールたちはほとんどあげちゃったけど、ガンマは佑樹に、ハンタは桐嶋サンに預けてます」

 正直に言えば桐嶋サンをこれ以上深入りさせるのは気が進まないが、今更遅い。神外の奴は既に桐嶋サンを追って姿を消している。

 けれど、パーティ・ホエールの二体が彼女のガードに当たれば、時間稼ぎは出来るはずだ。

「先生は今どこです?」

"私は今夜は当直だ"

 それはそれは、また都合のいい。

「今時当直のあるガッコも珍しいですね」

"無駄口を叩く暇があるなら羽でも生やせ。校舎で神外狩りをするのなら準備に時間は掛からん。が、お前の炎なしでは神外を葬り去ることは出来ないのだぞ"

 了解、と返事をして念話を打ち切ると、サングラスで視界を青く染める。

「…あ〜ぁ」

 俺は自分の服装の有様にようやく気付き、溜息混じりに呻いた。

喉を縊り切られたときのおびただしい量の血液が、憧れのギタリストの物と同じ蒼ジャケットを、襟元から背中に掛けて真っ赤に染めていた。

「…結構気に入ってたんだけどな、コレ」

一見して、致死量に達する出血だと解る。

だが、それだけだ。確かに俺は神外に首を縊り切られて、頭を踏み潰され、その上で身体の大半の血を失った。

けれど俺はこうして生きている。頭だって普段と同じ形状を保ってくっついているし、貧血の気はまるで無い。

種明かしは至って簡単。『生き返った』わけでも『蘇った』わけでもない。死を『なかったこと』にしただけだ。

「…堪んないな」

 宝物であるサングラスをかけなおしてから、今度はどうしようもないほどに左腕が震えていることに気が付いた。どうやら、殺されたことを根に持っているらしい。

 先ほど現れ、驚きとともに姿を潜めていた破壊衝動が、いつの間にか心の半分を覆い尽していた。

 俺の思考を侵していく、凶悪な嗜好。

マズイマズイ。この暴れ馬の手綱を引くには、俺の理性は弱すぎる。

「行くか。仕返しってのは10倍返しが基本だからな」

 誰にでもなく呟く俺の顔は、きっと恐ろく歪んだ笑顔を形作っているに違いない。

「教えてやるか。本当の破戒と本物のバケモノってやつを」

 左手に黒いきらめきを作り、握り潰してもてあそびながら、俺はゆっくりと歩みを進め始める。



…To Be Continued