「どう、思います?」

 目の前に置かれたカップの中で廻るエスプレッソ。
 ミルクどころか砂糖も入れてないのに掻き混ぜたスプーンを外されて、
 琥珀色と表現される液体が渦を巻いた。
 良く見れば、豆から染み出る油分も一緒になって回っている。

「ん?」

 ランチ時を過ぎた店内には、他に客の姿はない。
 今日の唯一のバイトだった華連さんも、
 今さっきお遣いを兼ねた休憩で出て行ったばかりだ。

「あ、いえ。すみません。口に出してましたか?」

 カウンターを挟んだマスターののほほ〜んとした声で、
 頭の中のもやもやが声になってしまっていたことに気づいた。
 バツが悪くなったのと、聞かれたことに対する恥ずかしさで、頬がほんのりと温かくなる。

「ああ、いやなに。こっちこそすまんな。独り言だったか」

 驚いたそぶりを見せた私に、マスターは謝りの言葉を返す。
 基本的には、自ら客との会話に入っていくのはタブーなのだろう。
 確かにズケズケと踏み込んで来る店員がいるような喫茶店は、私としてはお断りだ。

「……いいえ」

 苦笑いをしているマスターに、私はワザと、どちらとも取れるように返事をした。
 実際、どちらなのか自分でも判断がつかない。口に出してしまったのは、
 無意識だったのだから。

 頭の中で繰り返していたものが、マスターに向けての問いだったのは確かだった。
 マスターはああやって敬語を使う数少ない一人であるし、たとえ心の中であろうとも、
 この場にいない人物に問いを投げるほどロマンチストなんかではない。

 それに──この問いは、目の前のこの人にで向けるのでなければ、なんの意味もない問いだ。

 (────)

 どちらに取ってくれるだろう。いや、私はどちらと取って欲しいのだろう。
 緊張を持ってマスターの反応を待つ私の頭の中で、そんな相反する二つの想いが交ざり合っていく。

 口に出そうとしなかった理由は、極めて簡単だった。
 さらにその理由となると込み入った話になるものの、表面に浮かんで直接の理由となるそれは、
 単に「話すわけにはいかない」ということ。

 話せばバレてしまうのだ。この人に私が想いを寄せているということが。

 きっかけは、忘れもしない一年と半年ほど前のこと。夏休みを迎えようとしていた、ある日のことだった。

 そのころの私は、世の学生のご多分に漏れず浮かれた気分でいた。
 誘われるがままに参加した合同コンパで言い寄ってきた男の甘い言葉に流されたのは、
 そんな気分のせいだったのだと思う。

 騙されたのではない──男がそういう生き物だとは、わかってるつもりだった。
 わかっていて、私の方も流れに乗って遊ぶつもりだった。思えば、私は背伸びをしたかったのだ。

 けれどその流れは、髪の毛から足の爪の先っぽまですっぽりと箱に収まっていた私には急すぎたのだ。



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  BLESS サイドストーリー    「 Amber courage 」
                 〜 佐倉 智津子 〜
                 Written By けもりん
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 それは、三度目のデートの時のことだった。

 デートとは言ってはみても、なにも特定の恋人同士というわけではなく、
 単に異性との付き合いを楽しもうという趣旨のものだった。

 映画を見て、ウィンドウショッピングをして、ドライブをして、食事をして、
 家まで送り届けてもらう──と言うのが、それまでの二回のコース。
 彼にしてもそれなりに遊んでる感じを隠そうともしなかったし、
 私も初めからそのつもりであったから、十分に楽しい時を過ごしていた。

 送り届けられるのを親に見られるのが少し怖くはあったけれど、
 そのドキドキ自体、私には大人への階段のように思えていた。
 それに、送ってもらった車はキラキラとしたスポーツカーだったし、
 もし見つかっても『カレ』として紹介してごまかしてしまえば良い、なんても思っていた。

 そしてその日。車から海のかなたに沈む夕日を見ているときに、
 彼は言ってきたのだった。「いきつけのバーがあるんだけど」、と。

 聞いてすぐに、なるほどね──と思った。

 その日の私は、彼から贈られた服と、アクセサリー、それに口紅で飾り立てていた。
 そのころの私なら、どれだって普段の自分では選ばないような大人っぽいものばかり。
 そもそも口紅にいたっては、前の日の夜の練習で初めて引いたぐらいだった。

 私の身体を覆っていたそれらは、バーに相応しい格好というわけだったのだろう。
 当時の私はそう理解したし、今ではその考えが正しいものであることをわかっている。

 とにかく私は、なんの疑いもなく頷いた。それも、少しの喜びとともに。
 お酒自体が初めてというわけではなかったけれど、洒落たお店はめてだった。
 バーテンダーが振るカクテルというものが、とても大人の世界だと感じていた。
 その世界に私も参加できることが、嬉しかったのだ。
 今思えば、笑いたくなるほど些細なことであるのに。

 その夜に私の身に起こったことは、まるで出来の悪いメロドラマかなにかのようなこと。

 カウンターに着くなり彼が「いつもの」と言って注文したカクテルを、進められるがままに飲んだ。
 確か、二杯。三杯目を断ったところで、「それなら行こうか」と彼が立った。

 「もう?」とは思ったけれど、腕の時計を見ると、なんだかんだと一時間くらいは経っていた。
 そんなに長居するような場所ではないのかもしれないし、もう少しどこかで遊んでいこうとすれば、
 門限を考えれると確かにそろそろ出ないといけない時間だった。

 私は特に疑問を挟むこともなく身支度をして、彼を目で追った。
 さっきまでカウンターにいたバーテンダーと談笑しながらカードを手渡していた彼は、
 レジのところですぐに見つかった。

 行きつけだと言っていたし、顔なじみなのだろう。
 しばらくかかりそうだと思った私は、
 手にしたハンドバッグをカウンターに戻して視線を戻しがてら店内を見回した。

 (これで経営が成り立つのかしら──)

 それが正直な感想だった。

 彼がカードを出しているところからすれば結構な額を取ってはいるのだろうけれど、
 それにしても夜の良い時間に他に客が全くいないのはどうだろうか。
 いくら今日が週の真ん中だとは言っても、私達のような学生以外でも夜の時間は空くだろうに──。

 そんなことを、正面を向き直って空になっていたカウンターの向こうに並んでいる色とりどりの瓶を見ながら考えていた。

 (『休み』の看板でも掛かってたりして、ね)

 あるわけもないバカなことを思って、目を閉じて一つ小さな息をついた。
 微かに目眩に似たものを感じて、少し酔ったかなとも。ペースは考えていたけれど、
 覚悟をしていたよりも強いお酒だったのかもしれない。
 口当たりは全然柔らかくて、油断していると飲み過ぎてしまいそうだったのに。

 危いところだった──そう思いながら、私は目を開いた。
 すると──並んでいたはずの瓶は、歪んでぐんにゃりとしてた。

 (あ……れ?)

 急激な世界の変化に戸惑って、私は頭を左右に振った。いや、振ろうとした。
 けれど私は、もたれるように頭と一緒に揺られた肩から肘をついた。
 落ちる頭を支えようとした腕ごと、身体が崩れ落ちる。
 巻き込まれたカクテルグラスが、どこかで耳障りな甲高い音を立てた。

 おかしい──と考えようとした頭は、まるで働いてくれなかった。
 手足には全然力が入っている感じがしない。
 ぼんやりと開けた目から入ってくるのはチカチカと揺れる光の渦だったし、
 つま先からはゾクゾクとした冷たいものが身体の中めがけて脚を這い上がってくる感じがした。
 そのくせ身体の内側にはじくじくと浸みるように熱さが広がりはじめて
 、私の肌は身につけた服が私をカサカサ撫でられた。

 『いつもいつも可愛い娘で羨ましいっすよ』

 『なぁに。飽きたらまた回してやるさ』

 『ははは。まさに女の敵ってな台詞ですね。こんな化粧にも全っ然慣れてなさそうな娘に』

 『そこが良いんだろ? その女の敵のお零れに預かってるのは、どこのどいつだ?』

 『へいへいっと。じゃ、いつもみたいに荷物は車に持って行っておきますね?』

 『ああ』

 近づいてきた二人が発している薄ら笑いが混じった音がなんなのか、
 私にはわからなかった。
 それは遠い世界の──夢の中のと言っても良かったかもしれない──ことに思えたのだ。

 外から入ってくる刺激はハッキリとしていた。
 けれども、それがなんであるかの判断ができなかった。
 今表現するのであれば、温かな靄の中で宙を漂わされている感じだと思う。

 けれど、それにはまだ先があったのだ。

 『さてっ、と。よ──ッ』

 不意に音が耳元に移動したかと思うと、二の腕の辺りに押さえつけられた感覚が生まれた。
 そのままそちらへ引く力に、私はなされるがままにもたれかった。
 自分とは違う匂いが、やけに強く私に食い込んできた。

 そのとたん──私の中で燻っていた熱が大きくなったのだ。
 まるで匂いに煽られるように。吐く息に合わせて荒く聞こえる音も、より短くなったように感じた。
 そしてそれを厭だと感じることが、私は全くできなかった。
 ふんわりと幸せな霧に包まれたまま、完全に身体を預けてしまったことを覚えている。

 そして、

 『さ、今夜は楽しもうな』

 首筋を襲った熱い滑りの渦に根刮ぎにされる直前の音が、その日『私』が聞いた最後だった。


                  ◇ ◇


 意識を取り戻したのは、当然のごとく男の腕の中だった。
 それも、お互いに一糸纏わない──いや、外す必要がなかったんだろう。
 腕時計の金属製のベルトだけは、体温と同化してた──姿で。

 天井を見上げたまま愕然とした私の背筋を、意識が堕ちる前に覚えていたのとは違う震えが奔った。

 記憶にはしっかりと刻まれていたのだ。
 前夜、促されるままに叫んだ言葉や、動きに合わせるようにして漏らしてしまった声の数々の記憶までもが。
 そして、私でないなにかが私を支配していたにもかかわらず、
 覚えてしまった悦びも。

 身体を起こすと、まだ全身がぼんやりと痺れている感じがした。
 その痺れは多分錯覚で、鋭く尖らされていた反動だったのだろう。
 身体の下半分に重く残っている疲れだけが、本当の感覚のように思えた。

 もつれるように丸まって床に落ちている服の脇に、
 不釣り合いなほど飾り気のない下着が両方とも打ち捨てられていた。
 あやふやになっている身体に鞭を打って、
 体に染み込んでくる男の体温から逃げるようにベッドから抜け出した。

 どっちのだかわからない汗で、全身がベトリとしていた。
 昨日もたれかかったものと同じ匂いが、こびりついているようにも感じた。
 髪もわけがわからないぐらいに乱れていたし、化粧だってぐちゃぐちゃだっただろう。

 シャワーを浴びて身を整えれば、それらからは逃がれられたはずだ。
 でも、私はそうはしなかった。下着を履いたときの貼りつくような感覚から覚えた嘔吐感にも、
 歯を食いしばって耐えた。

 なによりも、あの場から逃げたかったのだ。
 少しでも早く遠ざかりたかった。
 まんまと罠にかかった私を、できるだけ早く消し去りたかったのだ。

 時間を惜しんで無視したストッキングは、
 部屋の隅に倒れていたハンドバッグに捻子込んだ。
 そんなことを不幸中の幸いと言って良いかったかはわからないけれど、
 バッグを探られた形跡はなかった。
 逃げられたら逃げられたで構わない、というわけだったのだろう。

 「ぅん? なんだ。出てくのかよ、智津?」

 さあ行こうと思った瞬間。
 物音に気づいたのか、目を覚ました男が声をかけてきた。
 それも、それまで呼んだこともない馴れ馴れしい愛称で。

 やることをやってしまえば、あとはどうでも良いということだったのだろう。
 あるいは、一度絡み捕られた腕の中から抜け出すほどの心意気などないと、高を括られていたか。
 呼びかけは、引き留めるどころか眠りを妨げられたことを疎ましく思っているような口調だった。

 私はなにも答えなかった。
 手のひらの内側に爪の跡が残りそうなほどにバッグの取っ手を握り、無言でドアを目指した。
 悔しさと自分に対する蔑みでグチャグチャになった顔を見せまいと、振り返らずに。

 「わかったよ。それらな、後でぐだぐだ言っても知らないからな。──勝手に堕ろせよ? 妊娠しても」

 けれどそこに、彼はチッと舌打ちして冷徹な言葉を投げつけてきたのだった。

 ──わかってた。さっきから身体に下着を貼りつかせているのは、身体の中から滲み出してくる粘液だったのだ。
 そしてそれが注ぎ込まれたモノであることを否定する材料を、今でも私は持ち合わせていない。

 砕かれそうになる意志を、ぐっと歯を食いしばるようにして支えた。
 ここで挫けたら、どうしようもなく惨めになるのだからと。

 体内に感じる気持ちの悪いぬめりのせいで崩れてしまいたがっている膝を必死にこらえて、
 縋り付くように扉のノブに手をかけた。
 通り抜けられるかどうかのぎりぎりに開けた透き間から身を滑り込ませて、後ろ手に扉を閉めた。
 これ以上ないくらいに重い足取りで歩いた廊下を薄暗く飾っていた照明は、とても気味の悪い色彩だった。

 そうしてやっと思いでたどり着いた外の世界を覆っていたのは、鉛色の厚い雲。
 腕時計の短針は早朝と呼ぶには遅い数字を指しているのに、
 朝日は完全に負けていた。ピチャピチャと道に浮く水たまりを叩いていた雨は、
 ザアザア降りというほどではないにしても、傘がいらないというほどでもない。

 (弱り目に祟り目──ね)

 けれど、私には選ばなければいけないほどの決選択肢はなかった。
 舞い降りてくる諦めを自動的に受け入れて、一歩を踏み出したのだった。




 歩くこと数十分。

 始めこそシャワーの代わりになるかもしれないと強がっていた私の心は、
 重力のままに打ちつけた氷雨の粒をすっかり染み込ませていた。
 入れ替わりに失われていたのは、なけなしの自尊心。
 どうして一時の感情に流されて飛び出してしまったのかと、後悔さえも始めていたのだった。

 大人しく腕の中で目を閉じてしまえば良かったのかもしれない──。

 ぼんやりとそんなことを考えながら、意地悪な粒を撒き散らす雲を見上げた。
 そして低く広がる鉛色に押し潰されるようによろめいて、道の端に抗うこともなく腰を落とした。
 下着にまで水たまりを吸い込んだスカートは、私の肌に泥水を飲ませようとしているみたいだった。

 (どこ──?)

 なのにそんなどうでも良いことに思いが巡ったのは、
 きっと私自身を含めた他のこと全てが、もっとどうでも良かったからだろう。

 ある程度は家の近くにまで来ていると思っていた。
 けれども町並みに見覚えはなかった。
 繁華街はともかく、少しでも奥まった路地には今でも入ったことがない場所だってある。

 だから──何人かが私の前を通り過ぎた後。

 「すまんが、店の前なんだがな」

 雨を突然遮った傘から降って来た言葉で、
 ようやく私は背についた鉄格子が喫茶店の入り口である階段の手すりだと知ったのだった。

 「あ……すみません」

 驚いて見上げた先には、決して上品とは言えない男の姿があった。
 自分でも意外なくらい、素直に謝罪の言葉が出た。

 ここにたどり着くまでの時間を考えて、最後に見た針からして喫茶店が開くにはまだ少し早い。
 そうなるとお店の人かと判断して、私はノソリと預けていた上体を起こした。

 けれど、立ち上がる気にまではなれなかった。
 起こした肩を捻りながら身体をずらし、入り口の前とおぼしき場所を明け渡しただけ。

 まだしばらくは動きたくなかったのだ。迷惑をかけてまでとは思わなかったが、
 オープンまでまだ間があるだろうし──と思った。
 それと、モーニングがウリだったりしなければでしょうけど──とも。

 それに、そっとしておいて欲しかった。一人でどこまでも惨めになって、
 私に価値なんてないんだと思い知りたかった。
 今ではそれが逃げでしかないとわかっているけれど、そうすれば楽になれるとあの時は思っていたのだ。

 だから、訝しげに向けられた視線は、まるっきり無視した。

 ただ──そうは思いながらも、釈然としないという様子で脇を通り過ぎる気配を、
 私は意識だけで追った。残念と安堵が絡み合った想いで、
 店の中へ去ったことを教えてくれるカウベルのくぐもった余韻を聞いた。
 今の私がどう見えるのかだけ、気に掛かっていたのだった。

 きっと不様だっただろう。
 髪の毛の一本一本までずぶ濡れで、立つことも侭ならないほど脱力した身体。
 さらには着崩れた服と生足。勘が鈍くさえなければ、
 私の身に起ったことを正しく推し量れてても不思議ではない。

 身の程をわきまえずに背伸び──それも高下駄まで履いて──をして、
 見事につまづかされた、そんな滑稽な女に見えたはずだ。
 そしてそれは、まさにその通りだった。
 そのときの私は、誰がどう見ても“良い女”なんてものとは正反対の、
 みっともないモノだったに違いない。

 (──どうせなら、貶してくれれば良いのに)

 なかば同情や哀れみの視線を向けられるより、その方がすっきりとすると思った。
 まったく挫けてしまっていた気持ちだって、跳ね返る力を持てたかもしれなかった。
 あるいはいっそ、良いカモとばかりに店に連れ込んで良いようにすれば良いのに──とさえも思った。
 多分あのときの私なら素直に、いや、むしろ喜んで玩具であることを受け入れただろう。

 (……ああ。汚された女になんか触れたくもない──か……)

 そんな新しく自分を貶める材料を思いつくと、壊死が広がった心の一部分の痛みがすっと抜けていった。
 ぱちゃぱちゃと雨が水溜りに消えて行く音も、子守唄のように心地良かった。
 このまま目蓋を閉じたままでいられたらと考えてしまったのも、無理はなかったと思う。

 「──ぃ。──ぉ〜い」

 けれどまどろむように意識を崩しかけたところで、再び降りかけられた声が私を引き戻したのだ。
 間延びした軽薄そうな声は、今でもはっきりと思い出せる。

 正直なところ鬱陶しいと思ったものの、私は視線だけを向けた。
 迷惑だと訴える目を見せつけてやるつもりで、だ。一度引っ込みながら出て来たとぃうことは、
 なんの反応があるまでは呼びかけ続けようだなどという迷惑な腹づもりをしているのだろう──と思ったからだった。

 ところが──開いた視界の真ん中は、全く予想のしていなかったモノで覆われていた。

 (──はぁ?!)

 衝撃のあまりにまじまじと見つめてしまったソレに、私の目論見はあっさりと打ち破られた。

それは、一組のソーサとカップだった。目の前に浮いて、
 なんの冗談かほくほくとしきりに湯気が立ち上っていた。

 浮かぶ、とは言っても、もちろん宙に浮いていたわけではない。
 目の前の男が持っていたのだ。ただ、それにしてもあまりにも不釣り合いなモノが、に不釣り合いなモノがあった。

 「どうだ?」

 さらに男は短い言葉で、そのカップを私へと差し出した。

 「な……」

 どうしてそんなことを──と聞きかけた私は、言葉を止めた。

 似たようなことを経験したばっかりだったのを思い出したのだった。
 あれを飲めば、きっとまた私は身体からの刺激だけにされてしまうのだと、そう理解した。
 そう考えるのならば、突き出された液体にも納得できたのだ。

 「別に毒なんか入ってないさ。出したものでアタられた日には、ウチの店なんか干上がっちまうよ」

 けれども男は、顔を苦笑いに変えてそう言った。

 躊躇した訳ではなかった。素振りというほどのものは見せなかったと思う。
 むしろ、網にかけてくれるのであれば飲んでも良いかなと思ったぐらいだった。
 なのに──私の考えは筒抜けだった。

 「すまんがモーニングはやってないんでな。コーヒーだけだ」

 そこに嘘を見いだすことはできず、私はノロノロとソーサーを受け取った。
 とは言っても、男に向ける私の目が信頼できないことは、前の日に実証されたばかりだったけれど。

 「なん……で?」

 「ん? いやなに、折角なんでお近づきになっておこうかと思ってな」

 「え……」

 私の有様を意に介す様子もなくストレートにひけらかされた下心に、私は再び絶句した。
 まるで、普通にナンパでもされているような口調だった。
 未だ真実は聞いていないど、少しでも励まそうとしてくれていたんだ──と今でも私は解釈している。

  「いやぁ、喫茶店のマスターなんて、こう見えてなかなか出会いなんてない商売でな。
   貴重な機会なわけさ。まして────」

 だから──今の私があるのは、その言葉のおかげなのだ。
 それと、身体に立ち上がる元気を与えてくれた、その苦いだけの飲み物の。


                  ◇ ◇


 「ただ今戻りました〜」

 カウベルの音とともに店内に響く明るい声で、私はふっと我に帰った。
 たどっていた記憶を、頭の片隅にそそくさと片づける。

 持ったままになっていたスプーンをソーサーに置くと、
 連れ出された一滴が真っ白なソーサーの上に小さく模様を作った。
 私はおもむろにカップに手を延ばして、
 感慨に浸っている間に僅かに温度が落ちてしまった濃い色の液体に口をつける。

 『おっと。──ブラックで良いよな?』

 一啜りだけ舌の上に広げた味に、あの日のマスターの言葉が頭をよぎった。
 耳を疑うような言葉の後で、ワザとらしく問いかけてきた一言だ。

 なんでも、これが似合うのだそうだ。
 苦みを味わえてこそだ──などと、首を捻りたくなるような持論も展開してくれた。
 そのヘンテコな持論に乗せられて胃に押し込んだ初めてのエスプレッソは、
 こんなものを楽しんで飲める人がいるのかと思えるほどに苦かったというのに。

 「ねえ、マスター」

 もう一口を飲み込んで、カップは手にしたままで改めてマスターを呼び止めた。
 変なことを聞くのだという自覚はある。聞かれても困る問いだということも。

 「目指しても良いと思います?」

 それでも、聞いてみたいと思った。
 叶えることができることなのかもしれない──と思ってしまった私がいたからだ。
 社交辞令でも同意をしてくれるならば、それに縋っていられるとも。

 「ん?」

 「幸せを。──私も」

 諦めていた雪乃だって、辿り着くことができたのだ。
 あの娘にとっての秀晃君が、私にはマスターであっても良いではないか。
 そうなってくれるぐらいの“良い女”に近づけたのだと私に期待をさせているのは、
 誰でもないマスター本人なのだから。

 なにせ、他の客には添えるはずのお砂糖もミルクも、
 私のソーサーには乗せられていなかったのだ。
 注文のときに、一言も言わなかったにもかかわらず。
 “良い女”と私を形容してくれた、あの日と同じように。

 「ああ?」

 なんじゃそりゃと言いたげなマスターを無視して、私は更にカップに口を付ける。

 雨と涙の苦さが混じっていない人生二杯目のエスプレッソには、
 ほろ苦くも甘酸っぱくも、時には甘ったるくもなるかもしれないなにかが混ざっていた。

                                   Fin.
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